十文字掌編小説ぶろぐ

べんべんとした日常に豊かな物語を。短くたって構わない。豊かなものでさえあれば。 不定期の更新です。月3回を目標に。

『忘却の彼方』

「おはよう」

毎朝、仕事にでかけようとすると、玄関を出てからバス停までの道中でこうして挨拶をされる。
挨拶は社会人としての礼儀であるし、ご近所同士の何気ないコミュニケーションとしても便宜な道具だ。挨拶さえしておけば、根拠のない信頼を相手は勝手に抱いてくれるし、時には手助けもしてくれることもある。ただ逆に、挨拶をしないだけで、その相手への猜疑心を勝手に抱き、誤解を招くこともあり得る。


いつも元気よく挨拶をしてくれるのは、家の隣で豆腐屋を営んでいるケーちゃんだ。スポーツマンのような体格から発せられる声は目覚めには丁度いい。年も近いことから仲良くしてもらっている。

次に毎朝犬の散歩をしているピンクのおばさん。ピンク色が好みらしく、いつもピンク色の上着やシューズを履いている。愛犬にもピンク色の首輪をつけているのだから本物だろう。名前は聞いていないのだが、愛想が良く親しみやすい人だ。

そして同じ時間のバスに乗るOLの道井さん。職場は違うが、同じ停留所で乗車するので毎日挨拶を交わした後、バスの中でお互いの仕事の話などをする仲だった。


ただ唯一、一度だけ挨拶を返し忘れた人がいる。それは人生最大の汚点だった。それ以来、挨拶どころか顔すら会わせたくないらしく、どこか遠くに行ってしまった。

一度掛け違えた歯車は、もう全く別の滑車を動かしている。動いてしまった歯車を、元に戻そうとしてもそう易々できるものではない。

あの人がいなくなってから、もうずいぶんと経つ。今思い返してみても、忘れた原因がわからない。いや、正確に言うならば、もう思い出せないのだ。あの日の朝、自分が目覚めてからバスに乗車するまでの間の記憶が、濃い霧に包まれてしまったかのように。

あの人の正確も。

あの人の容姿も。

あの人の名前も。

覚えているのは、あの人が玄関で見送っていてくれていたということだけ。
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