十文字掌編小説ぶろぐ

べんべんとした日常に豊かな物語を。短くたって構わない。豊かなものでさえあれば。 不定期の更新です。月3回を目標に。

『なにもない嘘』

その喫茶店には、店員がいない。

来客を知らせるベルも雰囲気を醸し出すBGMもなければ、看板やメニューすらもない。

あるのは、ボタン一つで注がれるコーヒーメーカーとコーヒーカップのみ。

このお店を“店”として表現してもいいのか躊躇われるが、そのコーヒーメーカーの横に招き猫の形をした貯金箱が置かれており、その首から“お気持ちで”という札がぶら下がっているのだから、私はそこを喫茶店と認識している。

私以外にお客さんはほとんど来ない。住宅街にひっそりと佇む、まさに隠れ家的存在のお店。仲の良い友人に教えてもらわなければ一生気づくことはなかったであろう。

私は決まった時間に来店し、決まって同じ席に座る。ここでのひとときは、日々の忙しない喧噪を忘れさせてくれるほど、私にとっては大切な時間であり欠かせないものになっていた。

私は昔、うつ病に悩まされていた時期があった。仕事のストレスが原因だった。そんな時、友人にこのお店に誘われ来店したのがきっかけ。それ以来うつ病も治り、今では心洗われる日々を過ごしている。

店員がいないと何かと不便であると思われるが、そんなことはない。全てが自由であるが故に、他人に対して変な気をつかう必要もないし、それになにより人の目を嫌う自分には丁度良かった。


ただひとつ残念な点があった。


「しかしまあ、なんといっても自分はコーヒーが飲めないのがもったいない。蜘蛛じゃないけどね、飲んだら酔っ払っちゃうんだよなあ」

すると、友人の潤が眉を顰めながら口を挟んできた。

「お前さ。人の家に勝手に上がり込んで来るのはいいけどさ、少しは敬嘆しろよ」

「なんだよ潤。いつも感謝してるじゃないか。その証拠に、飲んでもいないにも関わらず、ちゃんと招き猫に気持ちをいれてるじゃないか」

「嘘をつくな。お前の気持ちは虚けじゃないか」
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