十文字掌編小説ぶろぐ

べんべんとした日常に豊かな物語を。短くたって構わない。豊かなものでさえあれば。 不定期の更新です。月3回を目標に。

『悦に入る彼』

今日こそは。

私は心に決めて歩みを進める。

「ねえ、これから時間ある?」

「ごめん。今日は享受があるから」

またか。

「わかった。じゃまた今度ね」

私はそう言って、教室から出る。それから柱の陰に身を隠し、彼が教室から出てくるのを待った。そして姿を現した彼は、鞄を片手に足早に帰宅を急ぐ。

これで何回目だろう。彼の後をつけるのは。

彼の家は、大学近くの三階建てのアパートの一階の角部屋。一度部屋に入ると陽が沈み再び現れるまで出てくることはない。
《享受》という言葉を彼は使うが、いったい誰に何を《享受》されているのか。それを知りたかった。

玄関扉の横にあるボタンを押す。――反応がない。もう一度押す。部屋の中で何か物が倒れたような音が聞こえた。しかし扉は開かない。

私が扉の取っ手に手をかけると、力なく扉は開いた。

期待と興奮が優先し、罪の意識は全くなかった。部屋の中へと一歩ずつ動かすのと同時に鼓動が弾んでいる。

玄関の先に淡い光を放つ曇り硝子の扉があった。その向こう側に彼がいる。彼がそこで《享受》されているのだ。

するとくぐもった彼の声が、直接私の鼓膜を振るわせるかのように聞こえてきた。

「いらっしゃい。待ってたよ」

朝露が背筋に一滴落ちたような悪寒がして振り返ると、彼の笑みが側にあった。
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