十文字掌編小説ぶろぐ

べんべんとした日常に豊かな物語を。短くたって構わない。豊かなものでさえあれば。 不定期の更新です。月3回を目標に。

『グレーな薔薇色』

いつのまにか、薔薇色の青春を味わうことの無いまま僕は大人になってしまった。しかしそのことについて焦ったこともなければ、後悔したこともない。

ただ人生は長いようで短い。一度くらいそんな経験をしてみたいという気持ちは、心の片隅にあったのだ。それがまさか、あの《瞹眛喫茶》で味わうことになるとは思ってもみなかった。



相変わらず僕は、カウンター席で文庫本を片手に紅茶のようなものを口に運んでいた。
この街の喧噪から百歩ぐらい離れた深々とした空間。ここをプライベートルームのように利用していた。だから、接客ということをほとんどやらないマスターが、唐突に「いらっしゃいませ」と言葉を発した時には、心臓が一瞬大きく跳ね上がった。

僕以外の客と会うのはそれが初めてだった。入り口を背にして座っていた僕は、恐る恐る振り向くと、そこに立っていたのはまさに絵に描いたような美人であった。無口なマスターが挨拶をするのも無理ない。しかし、僕とその女性とで態度が違うことに嫉妬してしまった自分がいた。

その女性はマスターに軽く会釈すると、慣れた様子で僕から離れたテーブル席に腰を下ろした。すると、透かさずマスターが性能の良いロボットのように女性にティーカップを運んだ。

僕はもう、その時にはマスターの行動に嫉妬するというよりも、女性に対しての意識が強くなっていた。直視するのは失礼だろうし、カウンターに向かっているのだから不自然な姿勢になってしまう。

背中で女性の存在を感じながら、ただの蟻の行列と化したページを捲っていると、ふいに目の前にいたマスターが掃かれた煤のように黒いカーテンの奥に姿を消した。

なぜマスターが姿を消したのかはわからない。そのことについて今すぐに深く考えることは避けた。
そしてマスターが姿を消してから随分と時が経った。いや、そう感じているだけで、実際は数分程度だろう。しかし僕のティーカップの中は空っぽ。店内には僕とその女性だけ。

僕はもう我慢できずに、恐る恐る首を回して女性の方を見た。すると女性の方も僕のことを見ていた。その視線は二人が同時に互いを見つめたというのではなく、女性はずっと僕に視線を向け続けていて、ようやく視線が合ったというものだった。

更にだ。その女性は優しく微笑みながら僕に手招きをしてきた。その誘いに、どう動けば良いのか思考を普段の何倍も働かせた僕は、結局椅子から立ち上がりゆっくりと女性に近づいていった。

自分の鼓動が相手に伝わらないようにするのが精一杯だった。

僕が近寄ると、女性は目線だけで僕に向かいの席に座るように指示した。僕は素直にそれに従い腰を下ろすと、再び女性が僕に向かって手招きをした。上体だけで女性に近づく。すると、急に女性の方から僕に向かって顔を寄せてきた。

そして頬を赤らめている僕に、その女性は透き通った声でこう言った。

「If you want to be happy, be.」

微笑む女性の長い睫毛の隙間から見える大きな瞳は、綺麗な灰色だった。
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。