十文字掌編小説ぶろぐ

べんべんとした日常に豊かな物語を。短くたって構わない。豊かなものでさえあれば。 不定期の更新です。月3回を目標に。

『記憶にない』

ある日、我が家で祖父の形見でもある日記がなくなった。その日記には、晩年の祖父が日々の日常を綴ったものが記されているだけの、他人にとっては何の価値もない代物だったらしい。しかし祖母にとっては祖父との思い出、残された宝物とも言えるもので、大切に文机の引き出しに仕舞っておいたのだという。

その晩、すぐに父が家族全員を集め、それぞれに祖父の日誌について問いただした。

「確かに昨日まではあったの」と祖母。
「お父さんの部屋は昨日掃除しましたけど、机の中には触れてないわ」と母。
「知らん」と兄。

最後に父は俺に聞いてきたので、俺は泥棒にでも盗まれたのではないかと言ったのだが、父はかぶりを振り、誰かが家の中に侵入した形跡はなく金目のものが一切盗まれていないことからその可能性は低いと答えた。

それなら祖母が、別の場所の移したことを忘れているだけではないかと言ったのだが、祖母はそれは有り得ないと頑なに自分の記憶を否定しない。仕方なしに、家族全員で家中を捜索することになった。それでも結局、祖父の日記は見つからなかった。

すると再び家族を集めて父が言った。

「家族を疑いたくはないが、この中の誰かが嘘をついている。あるいは記憶違いをしている。後者であることが望ましいが、それはそれで、ややこしいなあ」

頭を抱える父。そこで水を差すようなことを敢えて俺は言った。

「そもそも祖父ちゃんの日記って、どんなやつ?」

誰も何も答えない。父も母も兄も、首を捻る。そもそも祖父の日記は祖母しかその存在を知らなかった。その存在自体を俺は疑っていた。

俺は祖母に問いかけたつもりであったので、祖母に視線を向けると瞳を閉じていて、まるで狸寝入りでもしているかのよう。もう一度問いかけようとすると、萎んだ風船に僅かに残っていた空気が出てくるかのように祖母は答えてくれた。

「何枚かの紙にミカンの絞り汁をつけた筆で書かれたものだったわ。あぶり出しじゃないと読めないの。だから内容はわからないわ。ごめんなさい」

それからしばらく家族で捜したのだが、日記は見つからなかった。

それもそのはず。

そんなもの、俺の記憶にはないのだから。
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。