十文字掌編小説ぶろぐ

べんべんとした日常に豊かな物語を。短くたって構わない。豊かなものでさえあれば。 不定期の更新です。月3回を目標に。

『蜚蠊を生かした彼』

私は大の昆虫嫌いだ。

形が気持ち悪いのはもちろん、美しいと称される蝶々の類いでさえ視界に入れば悪寒を感じてしまう。過去にトラウマがあったということはないのだが、昆虫を好きでいる人の気持ちは全く理解できない。だから、彼と出会った時も、第一印象は最悪だった。

彼との出会いは学生時代の合コン。自分の趣味を話す流れで彼は、鼻高々と昆虫の魅力について熱く語り出した。大学でその昆虫の研究までしているというのだから、それはもう趣味の域を超えているのではないかと私は感じていた。その話を聞いているだけで徐々に私は吐き気を催したので、逃げるようにしてお店のトイレに駆け込んだのだ。
そしてトイレから出てくると、どうやら友人が私の昆虫嫌いを彼に話したらしく、その彼が深々と頭を下げてきたのだ。私はただ飲み過ぎただけと、謝る彼に対して逆に申し訳ない気持ちになり、そう言葉を返した。

それからしばらく、彼と連絡を取り合う仲になっていた。私にとって彼は、昆虫が好きだということ以外に欠点が見つからないといっていいほど、大人としてよくできた人だった。アルバイトでモデルも熟しているというほど容姿も良く、尚且つ頭も切れ、そして私を好きだと言ってくれた。彼の友人関係からの話でも、彼は何事にも一途であり、昆虫以外にも幼い頃から使っている物を大切にしているのだという。

そして私と彼の交際は始まった。

そんな彼がなぜ私を好きになってくれたのかは未だにわからない。大学を卒業してからも彼との交際は続いた。彼は、私と一緒に過ごすときにも、自分が大好きな昆虫の話は一切してこなかった。私に気を遣っているのだろう。私の方からその話はしないでほしいと、願い出たことはない。彼は私に嫌われないようと必死に私が好きなものを知ろうと努力をしてくれていた。


そして私たちはついに同棲をすることになった。そんなある日である。

私が一人リビングでくつろいでいると、あの口に出すのも厭な、汚物のような色の身体に細い手足が生えたような昆虫が、エクソシストの映画を想像するような登場の仕方で私の視界に入ってきたのだ。

途端、私は悲鳴を上げて、台所にいた彼に助けを求めた。

「はやく殺して!」

彼は私の側まで来たところで、私が見たもの、そして私が「殺して」と叫んだ理由を悟ったに違いない。

あの時の彼の行動は、今思えば当然でもあったし不自然でもあった。

彼はそいつを素手で捕まえると、部屋のベランダから外に逃がしたのだ。その彼の行動の一部始終を、カメラの連写機能を使って撮影した写真のように見つめていた私には、当然の如く理解できないものだった。

ただ私が問い詰める前に、彼の方から口を開いた。

「ごめん。やっぱり昆虫は殺せないよ」

その言葉を聞いて、私は禁断とも言える問いを、彼に投げかけることを決心した。それまで心の奥底に閉じ込めてあった問いだ。

「私と昆虫、どっちが好きなの?」

すると、彼は迷わず答えた。

「僕は、昆虫が嫌いな君が好きなんだ。だけど、殺すことはできない。彼らを殺せというなら、同じように君も殺さなくちゃならない」

そんな彼の頭を、私は思いっきり叩いてやった。
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