十文字掌編小説ぶろぐ

べんべんとした日常に豊かな物語を。短くたって構わない。豊かなものでさえあれば。 不定期の更新です。月3回を目標に。

『靄々傘』

「ありがとうございましたー」

 最悪だ。

 濁った水溜まりを飛び越えようとするも、失敗して靴がびしょびしょになった気分だ。

 これはコンビニでちょっと気になった雑誌を立ち読みしていた罰、なのか。

 コンビニの出入り口付近にある傘立て。そこに刺さっている傘は現在3本。1本は、ちょっと高そうな黒光りした傘。他の2本は、このコンビニでも売っていそうなビニール傘だ。しかし、その3本とも自分が持ってきた傘ではなかった。

 外は車軸を下したような雨。ついさっきまでは、まだギリギリ走って帰れば平気な程度だったのに。

 俺はふと、首を回して店内を見回す。

 レジ中の店員を除いて、店内に人は5人。スーツを着た中年の男性。若いカップル。そして母と子の親子。駐車場のないコンビニのため、残りの3本の傘は、この3組の物と考えて間違いないだろう。

 そして俺は思い出した。自分がレジに並ぶ前、若い学生風の男が会計を済ませていたことを。男の手に傘はなく、上着肩口が濡れていた。恐らく彼は、ここに来る際に雨に濡れながら入り、そして帰る際に俺の傘を差して出て行ったのだ。

 まあ、傘を差して行ったというのは憶測に過ぎない。傘を盗まれたからといって、警察に連絡しお店の防犯カメラを見せてもらい、犯人を指名手配するということまでの行動力は、俺にはなかった。

 ただ、なぜかあの学生と同じような行動を、やってしまいそうになっている自分がいた。

 正しいことは憂鬱なのに、悪いことは躊躇いもなくやってしまいそうになる。

 泣き寝入りは最善の行動なのか。罪を背負うことは、それほど重石になるのだろうか。

 こんなことで葛藤するなんて、数分前の自分は想像もしてなかっただろう。

 すると、コンビニの扉が開き先程のカップル、それに続いて母と子の親子が店を後にした。予想通り、その二組はビニール傘を差して足早に雨の中へと姿を消した。

 残る傘はあと1本。しかも簡単に触れることさえ許されないような代物。こうなってしまうと、選択肢は限られてくる。俺は渋々店内に戻ろう身体の向きを変えると、目の前にスーツを着た中年の男性が立っていた。

「一緒に入っていくかい?」

 その屈託のない笑顔に、一瞬心奪われそうになった。

 この人なら、俺の心に溜まった濁った水を、浄水器にかけて透き通ったものにしてくれるだろう。

 雨の中を傘を差して歩くその男性の後ろ姿は、とても幸せに満ち足りているように見えた。
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