十文字掌編小説ぶろぐ

べんべんとした日常に豊かな物語を。短くたって構わない。豊かなものでさえあれば。 不定期の更新です。月3回を目標に。

2017年05月の記事

『落ちていく彼』

  2階
「それで、どうするの?」
「ファミレスで良いんじゃない。俺、好きだし」

 結局、ファミレスか。という私の表情を、彼は全く見ていない。それもいつも通りだったので、私は諦めていた。
 彼が私のことを見てくれなくなったのは、いつ頃からだったのだろうと考えてはみたが、全く思い出せなかった。

  3階
「近所のとこ?」
「うん。美味しいからね。あそこは」

 彼は楽な人生を歩んでいる。好きな時に好きなことをする。嫌な箱とからは逃げる。極力努力はしない。
 初めは私も戸惑ったけれど、慣れてしまえば何のことはない。いつの間にか彼のペースに合わせて生きていくようになった。しかし、彼を好きになった理由が、今でも思い出せない。

  4階
「そういえば、昨日はどうだったの?」
「ああ、あれはちょっと酷いよ」

 彼が酷いと言葉を漏らした理由は、私の悪戯によるものだった。
 実は昨日、彼のお弁当の袋の中に、彼が大っ嫌いな虫のおもちゃを忍ばせておいた。彼からすれば、肝を冷やす事だったろうと、想像するだけで私は笑みを浮かべていた。

  5階
「仕返しだよ」
「それにしたって僕の唯一の楽しみランチタイムが……」

 私が彼のランチタイムを台無しにした理由。それは昨日の記念日を、彼がすっぽかしたからだ。
 ランチタイムなんて毎日やってくるけど、記念日は年に一回きり。私のショックから比べれば、彼の悲しみなんて比べものにならない。それに……。

  6階
「それでも夕食は、一人で美味しいもの食べたんでしょ」
「……まあね。でも一人って言うか社長たちとだけど」

 会社の社長たちとの会食。詳細は聞いていないけれど、普段私が食べないような食べたに違いない。
 どんなお店で、どんなものを食べて飲んだのか。はっきり答えてくれないところに、本人にも後ろめたい気持ちがあるのだろう。

  7階
「はあ、私もキャビアがのった伊勢エビとか舌がとろけるようなお肉、食べてみたいなあ」
「だからまた今度、美味しいお店、連れて行ってあげるって言ってるじゃん」

 私は彼に睨みをきかせた。
 本来なら記念日のにちょっとお高いレストランで食事。という予定だったのだが、いつも通り部屋での食事になりそうだった。

  8階
「記念日は年に一度しかないんだよ。それを逃したら一年待たなきゃいけないんだよ」
「……うん、だから、ごめん」

 歯切れの悪い返事。彼の中でも反省をしてくれている様子だが、私の怒りは収まっていない。
 私は今晩、再び仕返しをするつもりだった。

  9階
「それじゃ、私の言うこと、聞いてくれる?」
「え、あっ」

 私は彼の言葉を聞くや否や、思い切り彼の背中を押した。
 彼の身体が宙を舞う。そして彼の顔が逆さまになって見えた。

  10階

「ごめんね」

  1階

 肢体をおかしな方向に曲げた彼は、地面に仰向けになっていた。

 最後の会話。
 彼にとっては何気ない日常だったのだろう。
 落ちていく彼は、なぜか笑っていた。
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